2011年 01月 18日
【お知らせ】Twitterで随時更新を行っております。ブログは一時休止です。
私は去年以来、Twiiterを始めております。おもしろい記事などは外出先から携帯電話でTwitterにアップロードしますし、細かく寸評のようなものも書きます。

このブログも5年続けていますが、最近はブログよりもTwitterの使い勝手の良さ、本音トークが出来る良さに気づきました。

皆さんもアカウントを取得してTwitterにおいでください。

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# by japanhandlers2005 | 2011-01-18 14:16 | Trackback(3) | Comments(23)
2010年 02月 03日
2月3日 日刊ゲンダイ 米高官を従える小沢一郎の図
本日、2月3日発売の日刊ゲンダイ一面の写真。

正面に満面の笑みの小沢一郎、後ろにはルース駐日大使とキャンベル国務次官補。

日本国王が、覇権国の使いを従えている図。

勝敗は決した。

小沢は近く訪米するという。

普天間問題も驚くスピードで解決するだろう。

グアムに行くのではないかと思う。

沖縄はゼネコンが「鉄道でもカジノでもいいや」という話にすでになっていると私は見る。
沖縄がゴタゴタしたのは自民系ゼネコンがごねていたからだろう。国民新党、民主党系はカジノなり鉄道なりでゼネコン分断策を打った。稲嶺新名護市長誕生にはそういう意味もあるのだろう。

国民新党の下地幹男議員の「新嘉手納統合案」にまとまるのではないか。



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午後5時更新のB版★(最終版)では、キャンベルとルースの顔が消えていますね。
なんかああったのだろうか?



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それから今話題の「民野健司」検事。(左から3番目とのこと)


# by japanhandlers2005 | 2010-02-03 15:40 | Trackback(2) | Comments(32)
2010年 01月 16日
書評『日本国の正体:政治家・官僚・メディア-本当の権力者は誰か』(講談社)(その2)
<公共選択論>

 このアクターの合理的選択に注目して、政治や経済の制度研究を行う一派から生まれてきたのが、公共選択論(パブリック・チョイス)と呼ばれる学派である。一般に、彼らはバージニア学派とも呼ばれるが、それはその代表的学者である、ジェイムズ・ブキャナンやゴードン・タロックといった学者がバージニア州のジョージ・メイソン大学で研究したためである。ブキャナンは、もともとシカゴ大学で学んだ経済学者であり、権力層に近いが、一応はリバータリアンに分類される学者である。

 日本で、この公共選択をアメリから輸入してきたのは、竹中平蔵とも近い、加藤寛・千葉商科大元学長だということになっているが、実際には、その慶応大学での弟子にあたる、黒川和美(くろかわかずよし)・法政大学教授であるらしい。


師弟関係にある加藤-竹中の二人

 加藤寛は、1982年に黒川らを執筆陣に迎えた、テキスト『入門・公共選択』(三嶺書房)を出版している。この中では、公共選択(パブリック・チョイス)とは、次のように定義されている。

 すなわち、「社会のすべての成員が共有せざるをえない決定(非市場的意思決定もしくは政治的意思決定=公共選択)に至る過程における参加者(市民=投票者、政治家および官僚)の選択行動の研究」である。

 この「社会のすべての成員が共有せざるをえない決定」とは、例えば、タクシー業界の参入規制の緩和(あるいは強化)であったり、消費税の税率の決定(増税・減税)であったり、郵政事業の民営化であったりする。このいろいろな政治的な決定において、それぞれの行為者がどのように行動するのかを観察した上で、有権者にとってどれがもっとも低コストで利益が高い決定になるかを導き出すのが、公共選択である。

 デモクラシーでは、当然のように、有権者が主権者として、自らの代表である政治家を選ぶ。行政組織(官僚制度)は政治家の監視の元で、有権者の利益を最大化する政策を行う役割を担っている。なぜなら、官僚の給料は国民の税金から支払われているのであり、「飼い主」である国民に対して、官僚は滅私奉公しなければならないはずである。

 ところが、実際には、官僚制度の腐敗、天下り問題、財務省の日本支配という問題が存在する。「飼い犬」の手を噛むどころか、飼い犬と飼い主の関係が逆転してしまっているのが、今の日本という国である。

 政治家と官僚の関係においても同様で、選挙で入れ替えがある政治家と違って、官僚には、入れ替えがない。出世競争に敗れたキャリア官僚が自発的に辞めて、関連の団体に天下りしていくことはあるが、国民は官僚に対して何らの影響力を直接的に行使できない。

 そこで、官僚制度の肥大化を食い止めるために、国民の代表である政治家の活躍が期待される。しかし、政治家が大臣になっても、その分野の政策のエキスパートではなく、たまたま派閥の内部の当選回数による順送りの人事で、各省庁のトップに付けられた場合も多く、持っている情報量では官僚にはかなわない。政治家の無知を理由に官僚は、政治家を容易にだますことも可能である。

 公共選択のアプローチでは、政治的決定に参加する人々が、自らの合理的利益を優先して行動すると想定し、慈善的博愛的な動機ではなく、平均的な人間が持っている利己的動機を重視する。この前提に立って政治過程を分析してみて、「飼い犬」と「飼い主」の関係が逆転している場面を発見した場合、「飼い主」が「飼い犬」に対する監視を強めるなどの対策を打つことを提案するのである。

 また、『入門・公共選択』では、現代社会では、年金、健康保険といった社会福祉に代表される行政サービスが拡大したために、官僚組織が拡大し続ける、「行政国家」化が進んだと説明している。古典的な官僚モデルでは、議会(政治家)は、行政部にとって超越者ではなくなり、かえって議会が行政組織に依存するようになり、行政部は議会から独立し、行政裁量の範囲が拡大してしまった。官僚自身も与えられた仕事だけを忠実に実行する「公僕」ではなく、官僚独自の目標(「省益」)を持ち、その目標実現のために努力する、「合理的効用極大論者」となっていった。(『入門・公共選択』38ページ)

 例えば、官僚達は自らの縄張りを大きくするために、自らの所属する部署の規模の極大化を図ろうとする。その結果、有権者が本当にほしがっていない行政サービス(例:国営マンガ喫茶や不要な大規模林道)が供給される。この結果非効率が生まれる。この非効率の結果生まれた利権に対して、政治家や利益集団が群がる。これをレント・シーキング行動という。

 この官僚のよけいな行政サービスの提供や、本当に必要なところに資金が回らない問題を解決する場合、公共選択論では、行為者(主に官僚)の行動の規制を実現するための、ルールや制度設計の変更をどのように行うのかが重要な論点になる。

 郵政民営化問題が盛んに議論されていたとき、実は、竹中平蔵・郵政民営化担当大臣は、「制度設計」ということばを繰り返し使いながら、彼の言う「官から民へ」(本当は「官から官と米へ」)の構造改革を訴えていた。彼は加藤寛の弟子だから、公共選択論のいう、、政治決定におけるアクターの重要性については十分に認識していたはずである。

 このように、合理的選択論では、アクターは合理的選択を行っているということを、“後付けの理屈”で説明していく。合理的選択論は、経済学の一種であると自分たちは思っているので、分析を行うためには、十分な統計的データや事実データを必要とする。したがって、基本的に過去の事例だけを研究する。

 しかし、このようなやり方を逆用すれば、実際の、つまり、今後の政治制度の設計を行う場合に、その要素を単純化して大まかなデザインを描くことが可能になる。アクター達は、どのように制度設計を行えば、自分の利益を最大化出来るかを考え始めるのだ。

 例えば、ある場所で、非効率が存在する場合、それを本来のデモクラシーのあり方に戻すことにも使えれば、逆に官僚が自らに不利な政治改革を行わせないために何らかの策略を練る対策を取ることもありうる。

 あるいは、実際に成立している「プリンシパル-エージェント関係」とは何か別の関係が表面上は成立していると見せかけることで、本来は「飼い犬」(エージェント)であるべきアクターが、実際には「飼い主」であったことを隠蔽することも可能であるのだ。

 さらに、そこまで行かなくても、プリンシパルが情報弱者であることを利用して、エージェントが、プリンシパルの見ていないところでやりたい放題をやってしまうという事も可能なのである。

 私の知り合いの研究者はこの点について非常にわかりやすい説明を、「コンビニの店長とアルバイト学生」の事例を使って説明してくれた。

 コンビニ店長とアルバイトの関係では、当たり前だが、店長が雇用主(プリンシパル)であり、アルバイト学生がエージェント(使用人)である。店長は全ての店番を自分で行うことが出来ないので、深夜などの時間帯はアルバイト学生に任せている。アルバイト学生は多少は仕事もいい加減だが、とりあえず、商品を売って代金を受け取るという最低限のことは出来る。

 仮にアルバイト学生がバイト中に商品のパンをくすねてしまっても、それが全バイト学生がやっている行為である場合、あるいは、それが優秀な仕事の出来る古株のバイト学生だった場合、彼らを全て罰することは、彼らが一斉に止めてしまうリスクを店長に負わせてしまう。それだったら、店長は多少の店員の行為には目をつむり、最低限の業務をこなしてくれることだけを希望するはずである。

 これが「プリンシパル-エージェント関係」における、「エージェンシー・スラック」の問題である。

 ウィキペディアには、「エージェンシー・スラック(agency slack)とは、エージェントが、プリンシパルの利益のために委任されているにもかかわらず、プリンシパルの利益に反してエージェント自身の利益を優先した行動をとってしまうこと。エージェンシー問題(エージェンシーもんだい、agency problem)とは、プリンシパル=エージェント関係においてエージェンシー・スラックが生じてしまう問題のこと」と説明されている。

 私の言葉でこれを言い換えると、「エージェントは、与えられていた仕事をそつなくこなせば、あとはある程度自由に自分の利益を増やせる」ということになる。

<アメリカをご主人様と認めた財務省による日本の悲劇>

 私は、この「エージェンシー・スラック」の問題こそが、九〇年代のアメリカと日本の官僚の関係を読み解く上できわめて重要だと考えている。その前に、小泉内閣誕生までの日本の政治について軽く振り返りたい。

 まず最初に、九〇年代からずっと政治家主導の政治体制が必要だと言われ続け、九〇年代には官僚に対するマスコミによる激しいバッシングがあった。

 一番わかりやすいのは、「ノーパンしゃぶしゃぶ」事件だろう。一九九八年に大蔵省(MOF)の官僚が銀行のMOF担によって接待を受けていたことが大々的に報道され、国民の反発を呼んだ事件である。この事件によって、大蔵省へのアメリカの攻撃が進み、やがて財務省と金融庁の分離につながった。

 ところが、大蔵省から財務省への移行が行われても、日本国内において、財務省は依然として力を持ち続けた。小泉内閣で財務次官を務めた、武藤敏郎(むとうとしろう)がその好例である。

 武藤は、「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」の時に監督責任を問われて、官房長から、大臣官房総務審議官に降格された。(「ウィキペディア」より)ところが、その後、小泉内閣のキーパーソンの一人である財務次官に昇格した。しかも、長きにわたり次官を務めた後、その後は日銀副総裁にもなった。これによって、日銀と財務省は一体化したともいえる。

 小泉純一郎政権は、珍しく、久々の政治家主導であったと言われるが、実際は、新しく財務次官となった、丹呉泰健(たんごやすたけ)らの首相秘書官の人事に象徴されるように、実際は官僚主導政権だった。小泉政権時代に、自民党幹事長を務めた、中川秀直前衆議院議員は、「上げ潮」派を名乗り、官僚主導の政治の改革が必要だと訴えたが、問題はその改革の実行断行にアメリカ共和党ブッシュ政権のバックアップを得ようとしていたことである。

 いずれにせよ、官僚バッシングによって、官僚のパワーが弱体化し、本来あるべき姿である、政治家主導の政治は実現していない。ここで出てくるのが、「政治家が官僚を指導・監視する体制」ではなく、「官僚が無知な政治家を操る体制」が継続したのではないかという疑問である。

 この「官僚が無知な政治家を操る体制」の実情については、高橋洋一氏や長谷川幸洋氏が現場からの生々しい報告を続けている。官僚の手元にはおびただしい情報が集まってくる。これが、官僚機構は日本のシンクタンクである、といわれるゆえんでもあるが、これには大きな問題がつきまとう。

 長谷川氏は、『日本国の正体』という本の中で、官僚が情報の非対称性を利用することで行っている「悪さ」を二つあげている。

 一つ目は、官僚が政治家を誘導しているという問題である。官僚は、本来、政策の選択肢を提示しして、その中からどんな政策を採用するか決めるのは政治家である。ところが、実際は官僚は「私たちがやるべきなのは、この政策です」と決め打ちして、それを政治家が追認する形になっている。政治家は官僚に任せる方が決断しなくても良いので楽なのでそうしてしまう。

 二つ目は、マスコミにとって主な情報源が各省庁の官僚たちであることから、マスコミ記者に対して官僚が常に優位に立てるという問題である。場合によっては、官僚はマスコミの書く記事を意のままに操ることも出来る。

 ところが、ここでさらに重要なのは、アメリカと官僚の関係である。アメリカは留学制度を利用して、政治家をアメリカの利益の代弁者に仕立てることに成功してきた。同様に、官僚制度に対してもアメリカはこれまで研修制度を通じて、アメリカ国内のシンクタンクで学ばせることで、日本の官僚が知らず知らずのうちにアメリカの利益を念頭に政策の決定を行うように誘導してきた。

 それでも、九〇年代の官僚バッシングが本格化するまでは、アメリカは官僚制度を意のままには操れなかった。九〇年代に一度大がかりな官僚バッシングをマスコミに仕掛けさせることで、アメリカは日本の官僚に対して、アメリカは日本の政治家よりも影響力がある存在であるとの認識を植え付けることに成功した。

 そして、官僚バッシングと同時に進行していたのは、八〇年代の日米構造協議の延長線上にあった「年次改革要望書」の交換の儀式である。この年次改革要望書の交換が決まったのは、一九九三年に行われた、宮沢喜一首相と、ビル・クリントン大統領の首脳会談の席だった。宮沢元首相は、日米欧三極委員会の設立メンバーの一人であり、アメリカとは関係が深い。宮沢氏は、安全保障問題ではハト派だったが、経済問題ではロックフェラー直系の政治家である。


三極委員会ウェブサイトにある宮沢喜一の経歴

 関岡英之氏によると、年次改革要望書は、一九九四年から毎年、アメリカ政府から要求文書として提示される。アメリカ側のカウンターパートになっているのが、米通商代表部(USTR)であり、毎年、英文の要望書の全文はまず最初にこのUSTRの部署で公開される。

 重要なのは、この文書が、外務省経済局、経済産業省を窓口にしていることである。受け取るのは政治家の代表である総理大臣ではなく、官僚組織であるという点だ。要するに、これはアメリカのUSTRから、日本の官僚機構への要求文書なのである。

 アメリカの規制緩和要求と連動した「官僚バッシング」によって、日本の東大法学部出身の官僚たちには、「本当に影響力があるのは日本の派閥政治家ではなく、アメリカ財界なのだ」であるという“学習”がなされていた。

官僚組織は自らの省の存立を目的に活動している、というのが合理的選択論の想定だが、そうなると、官僚達は次の行動パターンを取るようになる。

「プリンシパル(アメリカ財界)の要求を受け入れつつ、エージェントである自分たち官僚はその権限の温存を図る」

 アメリカにとって、日本政府に実現してもらいたい政策要求は、郵政民営化やNTTの分割、外国人弁護士法の制定、混合診療の解禁などであったが、これらの全ては政策要求文書である、「年次改革要望書」に記載してある。

 ところが、世界覇権国であるアメリカにとって、日本というのは、数ある周辺国の中の一つにすぎない。したがって、覇権国は、属国のすべての行動を監視する事は出来ない。

 一定の「アジェンダ」(重要な政策課題)さえ、忠実に実行してもらえれば、他は現地の行政官僚の自由にしてもよい、という考えになる。ここで官僚とアメリカの間に妥協が成立する。

 ここできわめて大きな問題が生じる。それは、「そもそもアメリカは、日本の官僚機構の監視についてはまったく関心がない」ということだ。

 アメリカにとっての合理的選択は、アメリカ財界の利益の極大化であって、日本国民の利益の極大化ではない。しかも、監視しようしもアメリカと日本は太平洋を挟んでおり、出来ることと言えば、せいぜい、訪米した官僚の行動の監視、現地大使館の駐在員を使った監視である。つまり、プリンシパルであるアメリカは、日本の現地情報についての非対称性の度合いが、日本の政治家たちよりも大きいことになる。

 官僚達は情報の非対称性を利用して、重要だと仰せつかった「郵政民営化」などのアジェンダ以外の問題については、比較的フリーハンドで臨める。財政危機をあおり、増税世論を扇動する財務官僚の行動は、実際はアメリカ国内の経済学者たちからは、笑いものになっているのだが、アメリカにとって、日本国内の財政問題は関心がない。
 アメリカは郵政資金で米国債を買い支えてもらえばそれで十分だからだ。(日本の財政危機のウソについては、菊池英博の新刊『消費税は0%にできる』ダイヤモンド社に詳しい)

 したがって、合理的選択論の観点で考えると、アメリカ財界が事実上の「プリンシパル」となって、日本の政治家、官僚、マスコミをエージェントとしているので、官僚はかつて以上に「エージェンシー・スラック」を利用できることになり、大きな自由裁量権を得てしまうという結果になる。

 一般的な政治学の用語で言い換えると、政治家、官僚、利益団体、マスコミといったアクターの中で、政治家、官僚、マスコミといったアクターは、全て、利益団体(海外の利益団体やそれと結託するグローバリストの財界)にコントロールされてしまっているということになる。

 民主党政権の課題は、このゆがんだ関係を、本来あるべき、「国民の代表である政治家(プリンシパル)-政治家の代理人である官僚」の関係を築き直し、出来るだけ官僚の自由裁量権を狭めることで、官僚の行動と国民の行動の利益の間の相反関係が生まれにくくすることである。

 それをゆがめている、利益団体、それも外国の利益団体であるアメリカ財界に対しては、厳しく規制を行うべきである。例えば、竹中平蔵のように、有力者が政治決定に影響を与えるべく、国外のアクターの利益を代弁する行為を規制するべきである。これは具体的には「ロビーイング規制法」や、外資企業の重要産業への投資を制限する、アメリカの「エクソン・フロリオ条項」の日本版を制定することで実行可能となる。


竹中平蔵は「アメリカのロビイスト」である

 次の選挙(注:本稿執筆は09年衆院選前)は、日本がアメリカとの対等な関係を築くと同時に、日本の優秀な官僚組織をを大きな国家戦略の元で機能させるという重要な目的を実現するための重要なチャンスである。アメリカの対日要求を抑えさせることは出来ないが、それに賢く対抗することは可能だ。そのためには官僚制度の改革が不可欠なのである。

 合理的選択論は、もともとはラムザイヤーなどのアメリカのグローバリスト達が世界支配のために重んじたという面があるが、これを逆用することで日本の国家戦略家たちは大きな反撃に出ることが可能なのである。

<参考文献>

『日本国の正体』長谷川幸洋著(講談社・二〇〇九年)

『入門・公共選択』 加藤寛・著(三嶺書房・一九八三年)

『アクセス・日本政治論』平野浩・河野勝編(日本経済評論社・二〇〇三年)

『ジャパン・ハンドラーズ』中田安彦著(日本文芸社・二〇〇五年)

『日本政治の経済学』J・マーク・ラムザイヤー/フランシス・ローゼンブルース著(弘文堂・一九九五年)


2009年07月23日(木) No. 1

# by japanhandlers2005 | 2010-01-16 21:54 | Trackback(3) | Comments(13)
2010年 01月 16日
書評『日本国の正体:政治家・官僚・メディア-本当の権力者は誰か』(講談社) その1
書評『日本国の正体:政治家・官僚・メディア-本当の権力者は誰か』(講談社)(転載自由)
2009年7月23日記 
中田安彦(SNSI)

 私は、最近、以前に高橋洋一氏と共著を出した、東京新聞の長谷川幸洋・編集委員の新刊『日本国の正体:政治家・官僚・メディア-本当の権力者は誰か』(講談社)という本を読んだ。
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目次
第1章 官僚とメディアの本当の関係
・新聞は何を報じているか
・不可解な事件
・霞が関の補完勢力になった新聞
・転向の理由
・政権を内側からみるということ

第2章 権力の実体
・政治家と官僚
・「増税」をめぐるバトル
・財務官僚の変わり身
・福田首相の本心
・事務次官等会議

第3章 政策の裏に企みあり
・「政策通」の現実
・カネは国が使うべきか、国民が使うべきか
・定額給付金は「ばらまき」か
・「官僚焼け太り予算」を点検する
・政策立案の手妙・「専務理事政策」とはなにか

第4章 記者の構造問題
・記者はなぜ官僚のポチになるのか
・真実を報じる必要はない?
・「特ダネ」の落とし穴
・記者は道具にすぎない
・官僚にとっての記者クラブ

第5章 メディア操作を打破するために
・霞が関幻想
・先入観としての「三権分立」
・「政府紙幣発行問題」の顛末
・記者が陥る「囚人のジレンマ」
・報道の力を取り戻すために

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 著者の長谷川氏は、もともと竹中平蔵のブレーンだった、高橋洋一に近く、その視点で、政界取材を続けた人だから、当然のように、反官僚制度という文脈での小泉構造改革には基本的に好意的である。中川秀直前衆議院議員は、「改革派政治家」という認識である。この点では私の認識は異なる。

 長谷川氏の認識では、「本来の権力者は国民の代表者である政治家であるべきなのに、実際は政治家とマスコミを官僚が籠絡(ろうらく)している」ということになる。中川をどう評価するかというレベルの問題をのぞけば、この大きな認識は正しい。

 しかし、現場にいる長谷川記者の認識は、日本の多くの政治学者たちの主流派の意見とは逆になっている。彼らはなぜなら90年代以降、「政治家主導モデル」を前提にして日本政治を研究してきたからだ。

 元々、戦後日本は官僚主導国家とも言われており、学者の間でも、戦後日本の高度成長を支えたのは、優秀な国士である官僚たちが大きなデザインを描いたからだという風に捉えられていた。この事実を発見したのは、アメリカの日本研究者たちだった。それは、私が過去に『ジャパン・ハンドラーズ』(日本文芸社・2005年)で紹介したように、エズラ・ボーゲル(元ハーヴァード大学教授)であり、チャルマーズ・ジョンソン(日本政策研究所所長)といった、ジャパノロジストの学者達である。

 アメリカにとって、かつての被占領国であり、その後軍事同盟国となった日本という国は、やがてアメリカの庇護の元で、属国となることを甘んじる代わりに、東京オリンピック開催前後の高度経済成長に代表される形で、東アジアの経済大国として浮上していった。現在、TBSで放送されている、作家・城山三郎原作のドラマ「官僚たちの夏」は、その頃の日本を描いた作品である。


チャルマーズ・ジョンソン


TBSのウェブサイトから

 アメリカは、一方で軍事同盟国である日本から、大量の繊維製品などの工業製品の輸出攻勢を受けるようになった。今の中国が、安い中国製品をアメリカに向けて大量輸出して、貿易黒字を稼いでいるのと同じ関係である。この関係だとアメリカ国内の繊維メーカーが安価の日本製品に価格競争で敗れてしまうことになる。従って、あまり日本のやりたいようにやらせるわけにはいかなくなった。

 そこで、アメリカは、潜在的な経済的な敵国(競争相手)になった、日本の政治・経済・社会構造を研究し始めた。この日本研究者たちのことを「知日派」という。彼らは、日本語を学びに日本にやってきた研修生あがりの人たちであることが多かった。

 知日派たちは、研究を続けることで、日本の政治・経済体制を動かしているのは、東大法学部卒を中心とする優秀な官僚(国家公務員)たちであると発見した。この代表的研究成果が、チャルマーズ・ジョンソンの『通産省と日本の奇跡』(TBSブリタニカ)という本であり、この本の中には、城山の小説のモデルとなった、通産官僚の佐橋滋(さはししげる)の名前も挙がっている。

 ところが、この経済大国日本は、1990年代以降、ソ連に変わる仮想的国に仕立て上げられ、80年代から起きていた日米経済摩擦は、日米自動車交渉という形で具体化している。アメリカのシンクタンクや財界は、これまで蓄積してきた日本官僚制度の研究を通じて、日本国家の中枢に位置していた、官僚機構に狙いを定め、強烈な官僚バッシングを行った。

 また、一方で、アメリカはかつての自民党の重鎮であった小沢一郎(現在の民主党代表代行)に目を付け、政治家主導の政治に日本を替えていかなければならないという趣旨の『日本改造計画』(講談社)を日米両国で出版させていく。小沢の『日本改造計画』の表紙と前書きには、英語版ではヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ジェイ・ロックフェラー上院議員がコメントを寄せている。この時点では小沢は、アメリカの後押しを得て、政治改革を進めるつもりだったようだ。


小沢の『日本改造計画(英語版)』


 ところが、日米自動車摩擦は、トヨタなどの日本車メーカーが現地生産を行い、現地に工場を建設するなどのアピールを行っていくことで、次第に収まっていく。当時のアメリカのクリントン政権では、財務長官が自動車交渉時代のロイド・ベンツェンから、ウォール街のゴールドマン・サックス出身のロバート・ルービンに代わり、アメリカの戦略的な目標も、自動車などの個別協議から、金融制度改革(金融ビッグバン)をメインにする、包括的なものに変わっていく。日本版金融ビッグバンを実行したときの首相は、故・橋本龍太郎氏である。橋本氏は自動車交渉では日本の言い分を通したが、金融制度改革ではアメリカの術中にはまったといえる。


橋本龍太郎元首相

 ところで、重要なのは小沢一郎が『日本改造計画』を出版していた1993年、アメリカで一冊の日本政治の研究書が発刊されたことである。

 その本は、『日本政治の経済学-政権政党の合理的選択-』(日本版は弘文堂から95年刊)といい、著者はJ・マーク・ラムザイヤーと、女性のフランシス・ローゼンブルースという二人の学者たちである。それぞれ、ハーヴァード大学、イエール大学に在籍している政治経済学者たちだ。


J・マーク・ラムザイヤー

 元々、ラムザイヤーは、「法と経済学」(ロー・アンド・エコノミックス)という、法律問題は全部カネで解決してしまえるというみもふたもない学派の研究者であり、日本裁判制度の研究を行っていた学者だが、『日本政治の経済学」では、日本政治制度について分析した。

 ラムザイヤーの視点は、チャルマーズ・ジョンソンのような官僚優位モデルではなく、政党/政治家優位モデルと言われる。つまり、ラムザイヤーがこの本を書いた目的は、データを使って、日本における政治意思決定の主導権が官僚ではなく、政治家に存在するということを示すことにあった。

 つまり、ラムザイヤーたちは学者として成功するために、チャルマーズ・ジョンソンらの地域研究学派の主張する、「日本の官僚制度は優秀だ」というモデルに対して決定的な打撃を加えるという狙いがあったわけである。

 ラムザイヤーは、この本の中で、日本の戦後政治において、官僚主導だったのは誤りで、政治家はきちんと官僚をコントロールしてきたといくつかの例をあげている。

 しかし、この事例は、例えば田中角栄が、建設省官僚をコントロールしてきた、といったものであり、取り上げられる数も少なく、これだけをもって、日本の官僚主導モデルが間違いだったというのはあまりに無理がある。そもそも小室直樹氏が一連のロッキード裁判批判で言うように、角栄が例外的に官僚をコントロールできた希有な政治家だった可能性の方が高い。

 要するに、ラムザイヤーの著作は、日本の官僚制度への攻撃のための政治的プロパガンダ文書だった可能性が高いのである。

 それでも、あるいは、それゆえに、というべきか、ラムザイヤーの一派は、反米的傾向を見せてきたチャルマーズ・ジョンソンの「地域研究学派」を押しのけて、カリフォルニア大学の政治学研究の主流にたつようになった。これには学者同士の学閥争いもあった。チャルマーズ・ジョンソンは、ラムザイヤーたちに権力闘争で敗れたのだ。(この経緯については拙著『ジャパン・ハンドラーズ』を参照)

 ラムザイヤーにお追従(ついしょう)して、チャルマーズ・ジョンソンの著作を批判したのが、東京大学教授の三輪芳朗(みわよしろう)という経済学者である。この人は原理主義的な規制緩和論者である。ラムザイヤーと共著で、『産業政策論の誤解――高度成長の真実』(東洋経済新報社, 2002年)という本も出している。

 産業政策という言葉こそ、チャルマーズが、『通産省と日本の奇跡』で定着させた言葉であり、この産業政策(インダストリアル・ポリシー)という考え方に目を付けたのが、クリントン政権の経済政策のブレーンとなった、レスター・サロー(『ゼロ・サム社会』)であった。(副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』に指摘がある)

 そして、この産業政策の考え方は、アル・ゴア副大統領が推進した、「インターネット通信革命」の戦略を編み出す上で大いに参考にされていた。アメリカは軍事用に開発したインターネットを民間産業に払い下げることで、アメリカだけではなく、世界中に通信革命を起こした。これは純粋に民間だけの技術や資金だけでは実現不可能だった話である。

 アメリカは、国内では産業政策によるIT革命を推進しつつ、世界に向けては、「ワシントン・コンセンサス」の名のもとで、規制緩和・自由化を推進するグローバリズムを押しつけていた。その主体となったのが、ウォール街の金融資本と、その代表者であるルービン財務長官である。

 ラムザイヤーは、小沢一郎の「日本改造計画」の失敗にも関わらず、一定の成果を挙げた。それは、日本政治学における「合理的選択革命」の推進である。アメリカで、CIAのバックもあった、チャルマーズ・ジョンソンらの「地域研究派」の研究者達が影響力を弱体化していく中で、グローバリストである合理的選択学派が勢いを見せてきた。

 この「合理的選択革命」はただ単に政治学だけのレベルにとどまるものではなく、アメリカが90年代一貫して現在まで要求し続けてきた、「年次改革要望書」の規制緩和要求とも深い関係がある。

 以下では、ラムザイヤーの『日本政治の経済学』などを参考にしながら、90年代から現在にかけての、日本の政治システムのあり方について説明しようと思う。

<アクターに注目するアプローチ>

 政治学の研究アプローチには様々あるが、私がここで重要だと思うのは、「アクター」(行為主体、登場人物)に注目したやり方である。私は、『ジャパン・ハンドラーズ』や『世界を動かす人脈』の一連の著作の中で、このアプローチを一貫して使ってきた。

 例えば、「ロックフェラー対ロスチャイルド」という単純な視点で世界を眺めるのも、アクター重視のアプローチである。そのほかには、国内の機関・政党・組織に視点をおいたり、国家間関係に力点を置いたりするやり方がある。(国際政治学学者ケネス・ウォルツの分類)

 日本政治を分析する場合、重要なのは、「政治家/政党」「官僚」「利益団体」が重要であり、これに国民の意見である「世論とマスメディア」が加わることもある。

 代議制民主政体であるデモクラシーにおいては、政治家は国民・有権者の代理人(代表者)であり、官僚は政治家の代理人、利益団体はそれぞれ企業や労働者といった特別な利益をもつ人々の代理人であり、マスメディアは国民の代理人という関係になっている。

 この「本人-代理人」の関係を、政治学では「プリンシパル-エージェント関係」という。プリンシパル(主体)の利益を実現するためにサーバント(召使い)として働くのが、エージェント(代理人、手先)であるという関係だ。したがって、日本政治の分析においては、この関係が教科書通りに成立しているかどうかを見極めることが重要なのである。

 例えば、前出の長谷川幸洋氏の『日本国の正体』では、政治家とマスコミは、官僚との間では、常に国家政策について、「情報弱者」の立場にある、と具体的に説明されている。この政治家・マスコミに対して、官僚がより多くの情報を持っていることを、「情報の非対称性」という。政治家が3しかしらないことを、実際に政策を実行する官僚は、50も知っているということは良くある。

 このような、「プリンシパル-エージェント関係」が成り立っている主体の行為を分析するのが、政治学者の研究である。ここで重要なのは、それぞれのアクターが、自らにとっての利益の最大化を目指して動くという想定を、合理的選択論の立場では行っているということである。

 例えば、官僚は何のために働くのか? 自分たちの政策が実行されたことによる名誉のためかもしれないし、自らの所管する部署の予算獲得・存続であるかもしれないし、あるいは、退官後の天下り先の確保かもしれない。だが、いずれにしてもアクターである官僚は、自らの利益の最大化を目指して動くという想定をする。逆に言えば、これらの目的を実現するために最も有効な行動をとることが、「アクターの合理的選択」ということになる。

 これらのアクター注目アプローチは、方法論的個人主義とも言われる。このやり方を採用しているのが、アメリカのリバータリアン政治家であるロン・ポール共和党下院議員の思想の基盤になっている、オーストリア学派たちである。オーストリア学派の創始者となった、経済学者のルートヴィッヒ・フォン・ミーゼスは、独自の人間行為学(サイモロジー)という学問を打ち立てようとした。

 ミーゼスは、純粋な自然科学や経済学のアプローチで、人間行為を分析することは不可能だと述べている。ミーゼスは、人間だけが目的を持って行為する主体であると述べ、人間行為の研究にはその動機の研究が不可欠だとした。

 このミーゼスの人間行為学の系譜を受け継いだのが、弟子のマレー・ロスバードという経済学者である。経済学者であるが、実際にやっていることは経済史研究に近い。人間行為には自然科学や経済学のようないつでもどこでもあてはまる法則性はないからである。したがって、オーストリア学派の研究書には経済学でおなじみの数式は出てこない。

 私の見るところ、この「プリンシパル-エージェント関係」に着目した、合理的選択学派の一派の考えは、ミーゼスらと共通する点がある。

(その2に続く)

# by japanhandlers2005 | 2010-01-16 21:53 | Trackback(1) | Comments(26)
2010年 01月 16日
ご挨拶としばらくのサバティカルとTwitterのお勧め

アルルの男・ヒロシです。今日は2010年1月16日です。かなり遅れになりましたが、新年のご挨拶を致します。

さて、今年のこのブログの更新についてお知らせします。まず、簡潔に申し上げますと、今年はブログよりも、活字メディアのためのアウトプットを重視したいと思っています。

その理由というのは、私としては小沢一郎への米国主導の国策捜査については、去年のうちに、あらかたの論点を出していると考えているからでもあり、米国国内の動きも大きくは今のところ動きがない、というふうに考えられるためです。ブログというのは、書いたら書いたで、急ぎでのアップロードになってしまい、不備がたくさん出てきて、揚げ足を取られてしまいますし、載せないなら載せないで、「暗殺されたのではないかと心配です」という本気なのか冗談なのかわからないコメントを戴いて苦笑してしまうわけです。ですから、今、私としましても、現在の進行中の雑誌連載の新企画、新刊(「ゴールドマン・サックス」についての入門書と、「グローバル・エリート図鑑」の企画と、様子を見て「ジャパン・ハンドラーズ2」、さらに「陰謀論批判」の本)の企画がありますので、大きな事件もないのにブログを更新する意欲が起きないのです。(それに私の貼り付けるのはほとんどが英文記事です。わざわざ訳を載せるのもおっくう)

ということで、今年の前半は、このブログは基本的には「サバティカル」ということに致します。その代わりといっては何ですが、私は去年以来、Twiiterを始めております。おもしろい記事などは外出先から携帯電話でTwitterにアップロードしますし、細かく寸評のようなものも書きます。このブログももう初めて5年になりますが、最近は2chから沸いてでたようなネット右翼崩れのような、反中国、反韓国だけを生き甲斐にしているような人がコメントを付けてきます。私の知り合いにも右翼・民族派の人間はおりますが、もうすこし理性的です。私ももともとは「新しい歴史教科書を作る会」と「産経・正論」路線を盲目的に支持した人間ですので、こういうネット右翼の心情はわからないわけでもないですが、いいですか、皆さん、いい加減、ネット右翼は卒業してください。私は年頭に『保守の怒り』という西尾幹二さんと平田文昭さんの書いた、保守論壇への「追悼文」のような本を読みました。こういう本が出るあたり、保守という日本における政治運動は終わったのです。同様に左翼も終わったのです。冷戦時代のノスタルジーに浸るのはいい加減止めた方がいい。

そういうわけで5年もブログをやっていると惰性に流れてきます。ですので、しばらく休止です。雑誌や書籍の方に力を入れます。学問道場の方にも書評は載せていきます。

それに、Twitterはおもしろいですよ。最近はTwitterとGoogle Readerを使って情報収集をします。流行のビジネス本ではありませんが、これはネットを通じて連動している情報ツールなので使い勝手が良い。毎回、NYTやWSJのトップページに飛ばなくても一カ所に情報が集まってくる。(日本の新聞は腐っていますので、産経以外、熱心にRSSフィーダーに取り組んでいるところは少ない)

ですから、このブログの「常連コメンテーター」のマッドマンさんとかもぜひTwitterに登録してください。リアルタイムで情報交換をしましょう。

さて、小沢一郎に対する、米国と検察の国策捜査はいよいよ正念場を迎えている。小沢は、今日の民主党大会で、資金の原資についても詳しく検察に語った旨をあきらかにした。私の見立てでは、小沢と検察はまるで囲碁を打ち合っているようだ。囲碁では小沢の方が腕が上だ。この民主党大会で、資金の原資について全国にネット中継を通じて語ったのは、小沢が最高のタイミングで検察の見込み捜査にダメージを与えるタイミングを狙ったのかもしれない。むろん、検察がさらに押せ押せでやってくるだろう。しかし、国民の代表たる政治家を官僚である国会議員が恣意的な権限で逮捕することは本来あってはならない。官僚は政治家に指揮される立場にある。

従来ならば逮捕されない容疑に対して、事前にマスコミを通じてたびたびのリークを行い、世間の印象を悪くするというのは司法官僚のもっともやってはいけないことであり、刑事告訴の対象になるという意見もある。

実際、今回の捜査を指揮した、佐久間達哉・東京地検特捜部長を国家公務員法で刑事告訴した例もでてきたようだ。私も、もちろん、信頼できるジャーナリストの主導であり、実効性があるならば、という前提があるが、大々的に国民運動としてこの告訴・解職運動が行われるのであれば、賛同したいと思う。(これは小沢一郎個人だけの問題ではなく、国家制度の根幹に関わる問題である)

夕刊フジや鈴木宗男氏が語るように、「特捜部は占領下の1947年、GHQの指導で隠匿退蔵物資事件捜査部としてスタートした」(夕刊フジ)のであり、「特捜部エリートは在米日本大使館の一等書記官経験者が多く、米国の影響力を受ける」という。そして、佐久間特捜部長は、在米日本大使館一等書記官なのである。

去年の3月から続く、この事件は米国国務省系、すなわち、ヒラリー・クリントン国務長官の知恵袋である、ジョゼフ・S・ナイ元国防次官補が主導し、朝日新聞の船橋洋一などの自らが議長を務める、日米欧三極委員会の主要メンバーと、日本の外務省の意思を受けて、「米国離れ」を画策している小沢一郎を政治的にたたきつぶせ、という意図で行われたものである。私は、去年の3月の段階から何度もこのブログでこのことを書いてきた。ジョゼフ・ナイは、去年の4月末にホテル・オークラ地下一階で開かれた、三極委員会に参加し、船橋と密談を重ねている。私はその現場も目撃している。この会合にはヘンリー・キッシンジャー、ディヴィッド・ロックフェラー、行天豊雄などの内外要人が参加している。

つまり、米国は、四半世紀以上前に、田中角栄を葬り去ったのと同じように、今度はこの角栄の最後の側近といわれる小沢一郎を失脚させるべく動いたのである。小沢一郎は、かつてはキッシンジャーやジョン・D・ロックフェラー4世上院議員が次世代の日本のリーダーともてはやした存在だった。これは、小沢が国際連合を介した日本の海外派兵を容認していたからである。しかし、時代は変わった。小沢はその意見を持ちつつも、いまや台頭する次の超大国中国との関係を重視し始めた。角栄もそうだった。角栄は必ずしも最初から反米だったわけではない。ロックフェラー邸によばれていたこともある。しかし、最終的には米国の支配を逃れようとしたために、ロッキード疑獄ではめられて失脚した。今回も、まったく同じ構図で動いている。

ジョゼフ・ナイは普天間問題では、ニューヨークタイムズの寄稿で語ったように、米国は軟化姿勢をみせてもいいと一歩引いたが、小沢については語っていない。(NYT:http://www.nytimes.com/2010/01/07/opinion/07nye.html)

確かに、鳩山由紀夫は弱々しく馴れないところがある。また、陰の実力者の小沢一郎は時には傲慢、豪腕にすぎるところがあるように見えるのは事実だが、国民政治家というものはそういうものである。米国のポピュリストと言われたヒューイ・ロングも、タイのタクシン首相も、そして田中角栄もそういう傾向があった。権力闘争のただ中に居るものはそのような魔物を抱えている。政治資金を集めたら、悪だ、大きなマンションを持っているから、悪だというような決めつけ報道にはもううんざりだ。政治家は、選挙においてその成果を問われるのだ。官僚が、収支報告書のテクニカルな記載ミスだけでしょっぴていいものはでない。(逆に私は、4億程度の資金をポケットマネーでポンと出せないほどの胆力のない政治家の方が、国家交渉でまともにやっていけるのかと心配になる)

前原誠司・国土交通大臣こそは、安倍晋三元首相と同様に、米国のネオコンの代理人と私は疑っている。しかし、安倍の例を見ればわかるように、このような胆力のない男に国家の政治は行えない。強そうに見えた、中川昭一・元財務省も最後の最後で弱さを見せた。

日本は北海道11区選出の石川友裕が逮捕されたことにより、同じ選挙区から中川昭一とあわせて二人の国民の代表を米国の意向を受けた官僚によって失脚させられたことになる。

今、私が米国の意向、と書いた。「陰謀論を言うな」と言われるかもしれないので、ここに一本の論文を載せる。以下に載せるのは、私が去年の前半に「学問道場」のサイトに載せた、長谷川幸洋(東京新聞記者)の『日本国の正体』(講談社)の書評文である。この中で、私は米国の政治学者が、公共選択論(パブリック・チョイス)の亜種である、合理的選択論(ラショナル・チョイス)という純粋たる学問理論を悪用して、官僚達を親米官僚にてなづけたことを明らかにしている。公共選択を日本に輸入したのは竹中平蔵の師匠の加藤寛氏であるが、彼もここまでラショナル・チョイスが悪用されるとは予測しなかっただろう。

アルルの男・ヒロシ拝

(書評論文は次ぎに投稿する記事です)




# by japanhandlers2005 | 2010-01-16 21:51 | Trackback(2) | Comments(14)


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